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  あの時誰と遊んでいたのか?。遠い思い出。 内包表現の最初の所の以下のように述べたように。 「私たちが日常の使ってる自己意識が作る世界(外延世界)とは別の次元に、その日常意識の底のミクロの細い通路抜けた裏側に、いつも匿名だけど固有の誰かと共にある別の私があって、そこに二人の心で開く、日常の世界で言えば二人で「美味しいな、綺麗だな」と応答しているような森崎さんが(内包)と呼ぶ還相の性によって立ち上がった空間が世界が、昔は阿弥陀という仏が導いた浄土といわれた世界が現れて、そこが人間の本源であると森崎さんの言う(根源の二人称)が開く世界で、その心が照らす光で世界を歩けば、世界はこの上もなく魅惑的で素晴らしいものになるという」その自己意識の手前にある世界(裏側にある人間の本源がある世界)=内包と呼ばれる世界で、その知覚は自己意識(現実の明証的意識)では普通は感じることはできず、ぼんやりとした膨らみや広がりとして感知されるしかないのだと思います。このぼんやりとした膨らみや広がりとしての意識のなかに、ぼくたちは常に「誰か」を感じるのです。この内包から立ち上がってくる感覚を見事に捉えているのが八木重吉の詩だと自分なりに思ったからです。 自己を固有の誰かに対する表現の場として立ち上がった世界だと言えます。森崎さんの言葉では還相の性(復路の性)が開いた世界と言えます。記憶以前の記憶と言ってもいいかもしれません。なお、親鸞もそうですが、人生も往路と復路あると考えてます。登山と下山と考えても良いです。頂きを極め、今度は下山して静かに偉大な凡夫として生きる。性にも志向性を持つ往路の性と縁で繋がる復路の性があると考えます。勿論家族や恋は往路の性と考えます。 八木 重吉 詩 ああちゃん  ああちゃん!  むやみと  原っぱを あるきながら  ああちゃん と  よんでみた  こひびとの名でもない  母の名でもない  だれの名でもない 松林  ほそい  松が たんとはえた  ぬくい まつばやしを ゆくと  きもちが  きれいになってしまって  よろよろとよろけてみたりして  すこし  ふざけたくなった 赤んぼが わらふ  赤んぼが わらふ  あかんぼが わらふ  わたしだつて わらふ  あかんぼが わらふ 貫ぬく 光  はじめに ひかりがありました  ひかりは 哀しかったのです  ひかり...